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【漱石、川端、中原中也】鎌倉に、文豪たちの足跡を訪ねて。

【漱石、川端、中原中也】鎌倉に、文豪たちの足跡を訪ねて。

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「東京に最も近い古都」、鎌倉

明治維新後の東京が近代都市として生まれ変わるなか、豊かな自然の中でひっそりと時を重ね続けた鎌倉は、近代的生活に倦んだ人たちが”歴史の面影”に出会う場所として愛され続けてきました。

そのせいもあってか、明治から昭和にいたるまで近代文学の立役者となった作家たちは、皆それぞれに鎌倉との関係を持っています。

今回は「本のある暮らし」をテーマにした特集の一部として、eA編集部随一の文学ファンが、実際に鎌倉まで足を運んできました。

全国の鎌倉ファンと、日本文学ファンに捧げる「鎌倉巡礼記」、最後までゆっくりとお楽しみください。

「とっておきの一冊」と出かけよう。鎌倉文学散歩

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「鎌倉文学散歩」と一口に言っても、そのルートは数え切れないほどあります。しかし、その中でもオススメしたいのがJR北鎌倉駅を始点とするルート。

この日は晴天に恵まれた10月下旬の休日。お昼すぎののんびりとした時間帯に到着すると、秋空に開かれた駅構内にもゆたかな光が溢れかえっていました。

円覚寺:漱石も座禅を組んだ禅宗寺

最初の目的地は、北鎌倉駅から目と鼻の先の距離にある円覚寺です。

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1282年に開山した円覚寺は、「鎌倉五山」の一角にも数えられる由緒ある禅宗寺。日本文学を代表する作家である夏目漱石島崎藤村が参禅したことでも知られています。

今も中世の雰囲気ただよう境内では、石畳を踏む音からも歴史の息吹が感じられるほど。『禅とは何か』『無心ということ』などの著書でしられる思想家、鈴木大拙を世に送り出したのも、哲学的な静謐さを持つこの寺でした。

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漱石が円覚寺に参禅したのは1894年の12月末から翌年1月初頭にかけてのこと。その経験は前期三部作の3作目として知られる『門』(1910年)の中にも描かれています。

例えば、石段をのぼった正面に構える山門は、次のように描写されています。

山門を入ると、左右には大きな杉があって、高く空を遮っているために、路(みち)が急に暗くなった。その陰気な空気に触れた時、宗介は世の中と寺の中との区別を急に覚(さと)った。

(夏目漱石『門』、新潮文庫より)

神経衰弱を患っていた漱石の心象風景が重ね合わされたような、やや陰りを帯びた描写ですが、漱石はこの参禅を通じて「悟り」とはまた別のなにかを経験した様子。

『門』の主人公である宗助は、東京のささやかな暮らしを脅かす過去の「秘密」から逃れるように座禅を組みますが、心を捕える不安の影から自由になることができません。

宗助はまた考え始めた。すると、すぐ色のあるもの、形のあるものが頭の中を通り出した。ぞろぞろと群がる蟻の如くに動いて行く、あとから又ぞろぞろと群がる蟻の如くに現われた。凝(じっ)としているのはただ宗助の身体だけであった。心は切ない程、苦しい 程、堪えがたい程動いた。

(夏目漱石『門』、新潮文庫より)

この不安でアンバランスな精神状態は、同じく参禅体験をベースに書かれた『夢十夜』の「第二夜」のなかでも、悟りを開けずに苦悶する武士の姿を通じて描き出されています。

悟ってやる。無だ、無だと舌の根で念じた。無だと云うのにやっぱり線香のがした。何だ線香のくせに。

(夏目漱石『文鳥・夢十夜』、新潮文庫より)

円覚寺では現在も一般参加者を対象とした座禅会を開いています。文学者の苦悶を追体験するもよし、鎌倉時代の佇まいを今に伝える環境のなかで心身ともにリフレッシュするもよし。朝早く鎌倉に訪れた際には、「座禅」をオプションとして加えるのもいいかもしれません。

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仏殿の天井にでかでかと描かれた「白龍の図」はインパクト大。

 

東慶寺〜源氏山公園:深い緑に囲まれて

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続いては、円覚寺から踏切を渡ったちょうど正面付近にある東慶寺に訪れました。

東慶寺は長らく女人救済の「駆け込み寺」として、離縁ができずに苦しんでいる女性たちを受け入れてきたそうです。その名残か、可愛らしい花が生けられていたりと「フェミニン」な心遣いが今も感じられるお寺です。

また東慶寺は文化人の墓が多いことでも知られ、鈴木大拙、小林秀雄、西田幾多郎、和辻哲郎などそうそうたる文学者・文化人がここに眠っています。

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貴族層を中心とした平安仏教とは異なり、その素朴さで庶民層にも広く受け入られた鎌倉仏教。鎌倉を愛した芥川龍之介が、「地獄変」や「蜘蛛の糸」など歴史・仏教に題材を得た傑作を書いたのもこの地でした。

鎌倉を流れる独特な時間は、墓所や禅寺が生活と地続きの場所にあるが故の、瞑想的な静けさに由来しているのかもしれません。

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さて、東慶寺を出たあとは、源氏山公園に向かって歩みを進めていきます。

道中には、こんな「昭和」を感じさせる風景も。

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車通りの多い道をひとつ曲がれば、左右を崖に囲まれた「切り通し」に通じます。馬にまたがったお侍さんが、急報を知らせにこの細道を駆け抜けている場面を想像するのもまた一興です。

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武士の時代には、四方を海と山に囲まれた城塞都市でもあった鎌倉。長年にわたってこの地に住んだ川端康成は、この特殊な地形のなかに「山の音」を聞いています。

八月の十日前だが、虫が鳴いている。

木の葉から木の葉へ夜露の落ちるらしい音も聞こえる。

そうして、ふと信吾に山の音が聞こえた。

[…]鎌倉のいわゆる谷(やと)の奥で、波が聞える夜もあるから、信吾は海の音かと疑ったが、やはり山の音だった。

(川端康成『山の音』、新潮文庫より)

さて、目にも豊かな緑のトンネルをぬけて、のどかな住宅地に到着すると、次の目的地まではあとわずか。

ここで踏切を待つ間に、ポケットから詩集を取り出します。

「愛するものが死んだ時には、/自殺しなけあなりません。/愛するものが死んだ時には、/それより他に、方法がない。」…こんな痛ましい詩を書いた詩人が、かつてこのエリアに住んでいたのです。

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寿福寺:中原中也の晩年を偲ぶ

中原中也といえば、今も昔も文学青年たちの青い心をがっしり掴んで離さない詩人ですが、そんな彼が最晩年を過ごしたのが、この寿福寺です。

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長男を亡くし、不安定な精神状態に陥った中也は、小林秀雄などの友人を頼りに鎌倉に居を移しました。中也の没後、小林秀雄は「中原中也の思い出」という文章のなかで、中也の最晩年を次のように追懐しています。

中原は、寿福寺境内の小さな陰気な家に住んでいた […] 真夏の午後であった。彼の家がそのまま這入ってしまう様な凝灰岩の大きな洞穴が、彼の家とすれすれに口を開けていて、家の中には、夏とは思われぬ冷たい風が吹いていた。四人は十銭玉を賭けてトランプの二十一をした。無邪気な中原の奥さんは勝ったり負けたりする毎に大声をあげて笑った。みんなつられてよく笑った。今でも一番鮮やかに覚えているのはこの笑い声なのだが、思い出のなかで笑い声が聞こえると、私は笑いを止める。すると、彼の玄関脇にはみ出した凝灰岩の洞穴の縁が見える。滑らかな凸凹をしていて、それが冷たい風の入り口だ。昔ここが浜辺だった時に、浪が洗ったものなのか、それとも風だって何万年と吹いていれば、柔らかい岩をあんな具合にするものか。思い出の形はこれから先も同じに決まっている。それが何が作ったかわからぬ思い出の凸凹だ。

(小林秀雄『作家の顔』、新潮文庫より)

実際に鎌倉を歩いていると、山肌や切り立った崖のそこかしこに大小さまざまな穴があいているのが目に留まります。これは「やぐら」と呼ばれる中世時代の墳墓で、鎌倉の柔らかな地層をくりぬいて、そこに遺骨や供養塔などを安置したものだといいます。

名もなき墓とともに時間を重ねた古都、鎌倉。幾年もの懐かしい夏の匂いや、親しい人と過ごした思い出が、いまも岩肌に染みているかのようです。

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小町通り〜鎌倉駅

寿福寺から歩くこと5分ほど、人並みにぎわう小町通りに到着です。

この鎌倉文学散歩も、そろそろ終わりに差し掛かってきました。

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鎌倉の魅力のひとつが、喫茶店や甘味処。

小町通りはスイーツのトレンド発信源として、老若男女の目と舌を楽しませ続けています。

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小町通りから通りをひとつ挟んだミルクホールは、大正ロマンの趣きたっぷりな老舗カフェ。文学サロンの雰囲気を求めて、読書がてらコーヒーを飲みたいところです。

そうだ、鎌倉に住もう

文学者に愛された古都、鎌倉。今回の文学散歩を通じて、「鎌倉に住みたい」という気持ちを強く動かされました。

鎌倉はかねてからシルバーエイジの移住先として人気の地でしたが、近年ではユニークなIT企業が多数集結し、若年層カップルの受け入れにも意欲的な姿勢をみせているといいます。

「いざ鎌倉」といえば封建時代の忠義心を表すフレーズとして有名ですが、そう遠くない将来には伝統と革新が心地よく同居する「移住トレンドの最先端」を表すキャッチコピーとして知られることになるかもしれませんね。

 

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